【社会人として歩み出した神戸製鋼所時代】
卒業のめどが立った大学4年時に、就職活動をしました。時代はバブル崩壊期であり、年々、就職環境が厳しくなり始めている頃でしたが、神戸製鋼所に入社することができました。この頃の神戸製鋼所は、平尾誠二さん率いるラグビーがとても強かったのですが、世代交代の必要性もあり、僕と同期入社で、後の全日本ラグビー界を担う、増保輝則君や元木君、京都産業大学の中道君、法政大学の伊藤君など、蒼々たるメンバーが入ってきました。
僕自身は、アルミ・銅事業本部原料部に配属され、主にアルミスクラップや副原料(金属マグネシウムやマンガン、シリコンなどの購買)を担当することとなります。高校時代に、私立文系コースに進んだ私は、元素記号表とは高校二年の段階でお別れしたはずだったのですが、ここで再び出会うことになります。社会に出ると、どこでどんな知識が役立つかわからないものです。
社会人となって初めて担当した仕事は、勉強になるばかりの毎日でした。世界の金属マーケットであるLME(London Metal Exchange)や為替、貿易実務、商社の機能など、とても多くのことを学ぶことができました。また、日々のノミニュケーションデビューを果たしたのも、この時です。
そんな折、1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生します。僕は東京勤務だったので直接の被害はありませんでした。そして、幸いなことに、神戸にいた身内とは地震後すぐに連絡が取れ、無事も確認できました。その日は、東京には十分な情報もなく、普通に出社し業務を昼過ぎまでしておりましたが、徐々にその全容が明らかになるにつれ、とてつもないことが起こっていることを悟りました。そして、地震からおよそ三日後、大きなトランク2つに水やレトルト食品をたくさん詰め、現地に向かいました。色々調べると、関空まで飛行機は飛んでおり、そこから高速艇で神戸まで迎えることがわかり、神戸市役所南の税関前にたどり着くことができました。それからおよそ3週間、会社を休職させてもらい、現地でのボランティア・復旧作業を手伝いました。
あの時、不思議な、そして忘れ難い光景をいくつも見ることとなりました。体育館に並べられた御遺体の数々。倒れた高速道路。建物に押しつぶされた車。その中で、印象的だったのが、どの避難所も殺伐としてはおらず、ものの取り合いなどもなく、ボランタリーな組織がいつの間にか立ち上がり、それぞれ秩序が生まれていたということ。これこそが、人間の底力なのかと、感動したことを思い出します。
神戸製鋼所時代は、本当に楽しく、刺激的で、とても大らかな先輩方に囲まれ、幸せなサラリーマン時代を送りました。一方で、阪神大震災でボランティアをした経験、そしてサラリーマンを経験して“公”を意識するいくつかの場面に出くわし、やはり自分は政治家になりたい、そう意識するようになりました。
ひとつ、サラリーマン時代に政治を意識したエピソードがあります。既述の通り、僕はアルミスクラップを買う仕事をしていました。新しくボーキサイトを切り拓いて電気をじゃぶじゃぶ使った材料を使うより、リサイクルしたアルミニウムを使う方が、環境にいいはずです。工場の技術者の方も、地球のために環境負荷の少ないリサイクル材を少しでも多く使いたい、そのためには苦労が多くても努力は厭わない、そんな男気溢れる気持ちに、新人社員ながら応えたい気持ちに駆られました。一方で、新しい材料(ヴァージン材)の方が使い勝手はよく、会社としてはコストメリットが大きいならばリサイクル材を使うけれども、わざわざ余計にコストをかけてまでリサイクル材を使わないという、株式会社としては当然の判断をしていました。その判断材料の一つには、「関税」がありました。当時、ヴァージン材には1%の関税、リサイクル材には関税はゼロでした。もし、リサイクルを推奨しようと政府が判断をして、リサイクル材を優位にしようという政策判断をすれば、ヴァージン材の関税を1%から5%にでも、10%にでも高めることができます。そうすれば、社会的によいとされる環境問題も良い方向に向かうはずだ、そんなことをサラリーマン時代に感じるようになりました。経済の原理を、政治の力で(良い意味で)捻じ曲げることができる、ならば、企業で社会善を達成しようと考えるより、政治の場から社会善を達成した方がベターではないか、そんな思いを抱き政治を本格的に志すことになりました。
【政治家を志し、米国留学へ】
ではどうするか。そこで思い立ったのが、アメリカへ留学し、学位を取ることでした。父・石井一が若かりし頃、貨物船に乗り込んでアメリカに渡り、スタンフォード大学で修士の学位を取得して這い上がっていったことを僕も意識しました。僕は英語の成績は悪くはなかったのですが、社会人になっても全然英会話は出来ず、それがある種のコンプレックスにもなっていました。
これまた神戸製鋼所での話です。仕事で、バンコクの神戸製鋼所オフィスに電話をする必要がありました。相手は日本人の所長ですが、取り次いでもらうには現地の方に英語で話しかけなければなりません。部長も次長も課長も、涼しい顔をして「石井君、バンコクに電話しなさい」というので、仕方なく電話を掛けました。「アイ ウドゥー ライク トゥー トーク ウィズ ミスターXXX」みたいな簡単な会話も、脂汗だくだくになり電話を掛ける。今まで十年間、英語を学んできたのに喋れない、日本の英語教育は何なんだという八つ当たりのような気持ちと、このまま英語から逃げ続ける人生では、一歩前に進めないなという自己分析とが絡み合い、どこかでこのハードルは超えなくてはいけない、そんな思いが募っていきました。
留学を決意してからは、そのための準備を進めることにしました。働く合間に少しの時間をみつけてはひたすら勉強し、給料はほとんど使わず留学の費用を貯めていくことにしたのです。
そんな努力の日々があってのち、アメリカの名門、IVYリーグの一角であるペンシルバニア大学のFels Institute of Governmentの入学許可を受けることができました。
アメリカへの留学は、とんでもなく自分が追い詰められる日々でした。辞書のような本を、来週までに読んでくるようにと命ぜられますが、仮に日本語であっても読み切れない量を課されます。そして、その本に書いてあることを前提とした議論に加わらなければ、授業参加をしたとみなされません。最初は、何を言っているのかわからない、何を言えばいいのか見当もつかない、ただうっすらと笑みを浮かべて授業について行ったふりをしているだけの日々でした。もちろん、そうした状況は教授陣もお見通しで、厳しい洗礼を受けることになるのです。
ある日、必修科目の教授から「君はもう授業に来なくていい」とメールが入りました。つまり、この科目はドロップせよ=退学だ、というメッセージです。必死にやっているつもりでしたが、留学生が1割にも満たないクラスでは、留学生に対する同情など何もありません。「アメリカで学位を取って華々しく帰国します!」と言ったすべてが崩壊する、このままでは日本に帰れない、しかし、自分としては最大限に一生懸命やっている、それが形にならず、とても悔しく情けなく、力不足と能力不足をまざまざと感じさせられながら、落胆したことが今も昨日のことのように思い起こされます。
今、再びあの留学をやるか?と尋ねられたら、おそらく「No」と答えるでしょう。しかし、あの留学の日々を経験してよかったかと聞かれれば、間違いなく「Yes!」と答えるでしょう。二度とやりたくないけども、自分にとってあの留学の日々は、火事場の馬鹿力がついたこと、ものごとは成し遂げるしかないときには逃げ道がないということ、それを乗り越えて、自分に自信がついたということ、このことに間違いありません。
アメリカから帰国し、その直後には衆議院選挙があったため、私は、石井一の事務局長的立場で衆院選を切り盛りします。身内とはいえ、衆院選の事務局長ができる機会はほぼなく、それもいわゆる“重鎮”議員の陣営であったこともあり、とても勉強になりました。マスコミとの接し方、業界団体との関係、そして選挙全体の流れを、客観的に把握することができました。この経験と、僕自身が本来持ち合わせているメタ認知が常にぐるぐる回り、自分自身が候補者となっても事務局長的視点を失わないというのはある意味で欠点なのかもしれません。
その後、学んでいくことが多いと考え、試験を受け政策秘書の資格を取ることに臨みました。気持ち新たに勉強を積み、無事その資格を得ます。