としろう半生記 その3(全4回) 衆議院議員として 実践の日々は

【日本総合研究所で得た学び】

石井一事務所で衆院選の事務局長をしたのちに、政策担当秘書を務める機会を得ました。その時代は、居心地の良い日々でした。けれども、幹部議員ジュニアの立場で政策秘書でもある、その居心地の良さに安住したら自分は成長しないと感じたのも事実です。そこで、別の世界の空気を吸いたいと思うようになりました。そしてたどり着いたのが、日本総合研究所です。30歳を前にして、政治の世界を離れ、シンクタンクの一員となります。

日本総合研究所では、カルチャーショックの日々を迎えることになりました。それまで“重鎮”議員の政策秘書をしていたことから、自分は世の中の最先端の情報や取り組みを知っているという、大いなる“勘違い”をしていることに気づかされることとなったのです。日本総合研究所はじめ、日本の民間シンクタンクでは、ある領域においてははるかに省庁よりも、もちろん政治家よりも進んだ研究や実証実験に着手しており、逆に行政や政治がその後追いをしている例があることを、痛切に感じることとなりました。日本総研での日々は、「官僚や政治家が日本を引っ張っている」という錯覚に気づかせてくれる、とても大きなきっかけとなりました。

【再び政治の世界へ】

研究員としての日々は、すばらしい同僚にも囲まれ、楽しく充実した日々でもありました。しかし、ほどなくしてある出会いが、僕を再び政治の世界に引き戻すことになります。それは、当時、慶應義塾大学環境情報学部助教授であった鈴木寛氏との出会いです。鈴木さんの選挙を手伝い、当選後には鈴木寛参議院議員の政策担当秘書となりました。いわゆる“重鎮”で‟昔ながら”の石井一の政策秘書とは違う空気を、鈴木さんの横にいれば吸収できる、そんな感覚になりました。事実、鈴木さんの政策秘書になったことは、僕の人生の幅を広げてくれることとなりました。新しく広がりつつあるIT業界とのご縁、鈴木さんが心血注いで奮闘する教育関係者とのご縁は、政策秘書としてお仕えしたご縁があったからこそ、今も大きな柱として、僕の活動を支えてくれています。

鈴木さんの参議院議員としての活動が軌道に乗り、次にはいよいよ僕自身が国政に出る決意を固めることとなりました。僕が挑むこととなった選挙区は、幼少期を過ごした芦屋市を含む兵庫県第7区でした。人は、「なぜ、はじめ先生の後を継がないのか。あとをダイレクトに継がないまでも、なぜはじめ先生の中選挙区時代の選挙区で出ないのか!?」と言っていただきました。そこは、正直なところ、色々悩み考えました。そして、至った一つの結論は、自分のルーツは兵庫にあるということ、そしてその中でも、自分自身が育った世田谷区と文化的バックグラウンドが似ている西宮市・芦屋市が、自分にとって最適な活動フィールドであることを、考えに考え抜いた上で、確信をするに至りました。うまく言葉では言えませんが、本能的に、そして感性として、西宮市はその肌感覚として、僕が育ってきた土地と極めて似通っているということを確信し、この地で政治活動をすることに決めました。

兵庫7区の衆議院候補となり、間もなく2005年の郵政解散がありました。34歳であった私は、準備も不十分、人間としてもとても未熟、更には時の流れに乗ることができず、あえなく落選の憂き目にあうこととなります。ただ、九万六千人以上の方々に名前を書いてもらい、それがとても大きな励みとなったことは事実です。次の機会には必ず、という強い思いで捲土重来を期すこととなりました。

落選から半年ほどして、慶應義塾大学理工学部関西テニス同好会なるところへふらりとラケットをかついで行ったことがありました。選挙に落選すると誰にも会いたくないものですが、慶應の先輩方はそうした傷口に触れることなく、温かく励ましてくれる方ばかりでした。そんな空間に癒しを求めて足を運ぶようになったところ、後の妻となる友香と出会いました。彼女は、西宮に住み、自ら司法書士事務所を開業するなど、細腕で頑張っている女性でした。僕が一年前の衆議院選挙に西宮から出馬したと言ったらとても恐縮するので、もしかして相手候補に投票したのかと思ったら「投票に行かなかった」とのこと。僕と知り合いでもなく、選挙に何の興味もなかったら投票に行かないということは往々にしてよくあるわけでそんなに恐縮される必要もないのですが、そうした奥ゆかしさに好感を抱き、結婚することになったのです。

【衆議院議員として ~インターネットと政治~ 】

それから約2年、2009年の衆議院選挙では前回の雪辱を果たし、当選することができました。それから自分の出来ることは何か自問しながら、3年3か月の間、衆議院議員として活動することとなります。

活動の主軸に置いたひとつが「インターネットと政治」の分野でした。骨太な財政や安全保障はもちろん大切ですが、「ITと政治」の分野は、そう専門家がいるものではありません。ちょうど兄貴分の鈴木寛参議院議員(当時)が文部科学副大臣に就任し、担当していたネット選挙解禁の案件を誰が担当するか決まっていなかったので、人脈も引き継ぐ自分が一番適任ということで、その対処に名乗りを上げました。当時の民主党政権は、ITをはじめとした新しい技術には開明的なイメージがありましたし、先輩方もネット選挙解禁法案を提出していたので、容易に前に進むものと思っていましたが、実際にこの法案を前に進めようとすると、思いもよらぬところから“慎重論”が噴き出し、何度もめまいのする思いに駆られたものでした。たった一人の幹部が「それは後回し」「俺、実はネット嫌い。根拠ないこと書かれるし」等言うだけで止まってしまう、そういう情けない実態があったのも事実です。結果として、何度か解禁の直前まで行きながら、民主党政権の間には対応しきれずに終わりました。

後日談ですが、2012年末に第二次安倍政権ができ、その直後に総理自身がネット選挙解禁をぶちあげ、簡単に法案を通してしまうことがありました。このあたりの実行力は、民主党政権は足元にも及ばなかったなあと、今でも思います。

とにもかくにも、ここでIT政策に力を入れたことが、その後の人脈づくりや政策面での大きな力になりました。

インターネットの世界は、政治と関係が薄いように思われますが、実は一番、政治が向き合わねばならない分野であると思っています。その理由は、ほんの10年前になかったことが次々と起きる業界ですから、それらにしっかり向き合わないと、政治や行政が足を引っ張って、国際競争にも劣後しかねないし、本来はすぐにでも市民が享受できる恩恵を、法律が追いつかないがために実現できないことも考えられます。事実、そうした古い時代の法律を、強引に今の時代に当てはめて管理しているのが、今の状況です。例えば、インターネット業界を所管する基本的な法律のひとつである電気通信事業法は、黒いダイヤル式の電話をベースに想定された法律でしかありません。情報が瞬時に海を超えることなど考えてもおらず、ましてや、実際のモノを伴わないデータを海外から買うというサービスなど、100年前の黒電話時代に想定しているはずもありません。自動運転にせよ、遠隔医療にせよ、ドラえもんの世界の夢物語とさえ思われたようなたくさんのことが、ITによって実現されようとしています。私が培ったIT分野の経験、そして落選後にYahoo! JAPANの政策企画部でお仕事をさせていただいた経験は、駿馬の様に突き進む業界とマンモスの様に古い体制に縛られる政治行政とのギャップを知る上でとても役に立つものでした。

【衆議院議員として ~原子力行政~ 】

国会議員時代に起きた出来事で、忘れてはいけないことは、何と言っても東日本大震災の時のことです。原子力行政と関わることになったのは、発生後に政府東電事故対策統合本部に呼び出されて、連日、内幸町の東京電力本社に通い詰めたことに始まります。

事故が起きて十日ほどした3月20日に、先輩議員に呼び出され、その次の日から東京電力の本社に寝泊まり(正確には交替で誰かが起きて待機している状態)することとなりました。

ある日、幹部が勢ぞろいする統合本部の大部屋が、騒然となっておりました。何だろうと思って一緒にモニターを見ていると、ある炉から黒煙が上がっているのが見えます。煙が上がっているのですから、何かが燃えているのでしょう。しかしそこに消防車を向かわすわけにもいかず、その場にいる全員は一緒になって「とにかくこれ以上酷いことにならないでくれ!」と祈るしかなかったのです。あの瞬間、原子力とは人の手に負えないものという考えが僕自身に刷り込まれました。日本中の原子力に関する技術のトップが何人も集まり、各省庁からもトップクラスの人材が集まっていましたが、みんなが神頼みだったあの時は異常だったと言っていいと思います。あの体験があったからこそ、難問の原子力行政と向き合い、さらに最難問である原子力バックエンド問題=核のゴミ処理問題に取り組むこととなりました。

原発事故の際、ゼネコン勤務経験や国土交通大臣としての経験を持つ馬淵澄夫代議士が総理補佐官に任命されることとなりました。私は馬淵さんの下で事故収束に向けチームとして活動しました。当時の原子力委員長であった近藤俊介氏が「最悪のシナリオ」として示した「4号炉の使用済み燃料保管プールの水が漏れて冷却が出来なくなれば、東日本は壊滅的な被害を受ける」とした資料に直面した時、一瞬、その実感がわかなかったのですが、なんと恐ろしい事態に人類は直面しているのだろう、原子力は開けてはいけない箱だったのだろうか、そう思ったことが思い起こされます。

原子力バックエンド問題は、ある意味で、日本の戦後行政の象徴のようなものです。机上の理論上は、原子力発電所で使い古した燃料を再処理して再利用すれば数千年分のエネルギーが得られるとされています。しかし実際には、その机上の理論を実践に移す際に、思わぬトラブルや許容できないほどのコストがかかり、もはや今のままでは、現実的に核燃料サイクルは実現が不可能となっていることは、誰の目にも明らかです。しかし、そこで不可能であることを認めてしまうと、今日まで積み上げてきた政策や現状がすべて崩れてしまう、だからフィクションであってもそのフィクションにすがり続けないといけない、そんな状況が透けて見えていくのです。人間社会のやることですから計画通り完璧にこなせることばかりではありません。大切なことは、計画と現状が違った際にいかにその見込み違いを認め、確かな道へ方向転換できるか、そこが問われているはずなのに、日本の原子力行政は現実を受けとめないまま今もフィクションを前提に進んでいる、そう思えてなりません。原子力行政と向き合って学んだことは、そのような、見たくないものは見ない、という人間社会の勝手な姿であったのだと思います。

「Vol.4 教育への取り組み そして未来の西宮に向けて」へ続く

 

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