【衆議院議員として ~教育問題~ 】
これら「インターネット」と「原子力行政」という活動に加え、最も時間を費やしたことが「教育」でした。初当選から一貫して文部科学委員会に所属し、所属していた民主党でも文部科学部門会議に所属していました。
当時の大きな成果としては「高校無償化」と「義務教育課程の少人数化」が挙げられます。高等学校は、その進学率がほぼ100%に近づき、実質的には義務教育化している中で、年間約12万円の学費を保護者に負担させている状態が長く続いていました。これを解消するための議論にも関わらせてもらいました。また、昨今ニーズが強まる少人数化についても、限定的でしたが成果を出すことができました。これらは、政権としての公約でしたし、大きな流れが出来ている中での成果で、その輪に加えていただいたことは、とてもよい経験となりました。
文部科学部門会議に属していると、先輩議員たちの話をよく聞く機会に恵まれます。それはとても勉強になるのですが、そこでの議論が、特に教育費、つまりお金に関する議題が多いことに気がつきました。お金に関する話はとても大切です。予算をいかに配分するか、これが国政の大きなマターであることは言うまでもありません。しかし、お金の話が大切とは言え、肝心の教育内容、教育論に関して政策議論をする機会が思ったよりも少ないと感じるようになりました。そこで、自分自身が中心となってワーキングチームを立ち上げることにしました。
ひとつが、「グローバル教育推進ワーキングチーム」、もう一つが「大学改革ワーキングチーム」です。グローバル教育と英語教育は、当然、違います。英語は大切ですが、英語が話せたからと言ってグローバル人材となれるはずもなく、食うに困らなくなるわけでもありません。英語はタダの道具でしかないことを認識し、本当のグローバル教育の素地を政治の場から発信したいという思いからこのWTの事務局長を務めました。そして、大学改革は、これまで大量生産大量消費の社会に必要な人材を輩出することに力点を置いて来た日本の教育そのものを大きく見直そうという学術界の流れを政治の場からサポートしていこうという取り組みでもありました。とても大きなテーマでしたが、こうした二つの政策論を議論する場において“要”の立場を務めさせてもらったことが、今日の僕の教育論を支えていると言ってもいいと思います。それが、2017年に発刊した本(「親が知っておきたい教育の疑問31」集英社刊)にもつながっています。
その他、奥山水源の森保全議員連盟の設立をして事務局長に就任したことや、世界的に著名なベンチャーキャピタリストの原丈二さんの思いを受けて、公益資本主義推進議員連盟の事務局長を務めさせていただくなど、とても精力的に活動させていただきました。衆議院を代表して、2012年にはローマで行われた世界電子議会会議に出席し、英語でスピーチする機会を持つこともできました。国会活動が3年目に入ってから以降、とても軌道に乗ってたくさんの成果が出せるような、そんな自信も膨らんできたところでした。
【落選して得たこと】
そうした中、2012年の総選挙が行われ、僕はあえなく落選してしまいます。大阪維新の会の勢いは気になっていましたし、民主党政権の不人気ぶりは底知らずで、不安な要素はたくさんありましたが、国会活動が充実し、心底支えてくれる支援者もたくさんいたため、なんとか乗り切れるのではないか、そんな思いが頭のどこかにあったことは事実です。落選は初めてのことではありませんでしたが、議席を失う落選と言う意味で、前のものとは違う感触でした。とてもショッキングであったのは、2009年の得票から12万票減らしたこと、その激減ぶりをどう咀嚼していいのか、なかなか答えは見つかりません。そのまま2014年にも総選挙があり、これも同じような選挙となって落選を重ねてしまうこととなります。
落選が続くことはとてもつらいことですが、投票率も50%を切るか切らないかに激減している中で、市民の政治離れもとても気を取られるようになりました。ここで同じようながんばり方をしたところで何かが大きく変わるのだろうか、ここで一度、立ち止まる必要があるのではないか…そして僕は、一度政治活動をお休みすることを決心します。2015年の春、統一地方選挙が終わって一段落したところで、それまで十年以上務めた、民主党兵庫県第七区総支部代表を自ら退くことにしてしばらくは一切の政治活動を休止することにしました。
そうした中で向き合ったのが、大学時代に格闘した、政治や哲学などの古典についてです。あえて国会中継などは見ず、平素の政治活動とは距離を置き、ウェーバーや福沢諭吉の本を読んでみると、不思議なもので力がよみがえってくるようでした。国会で仕事をして、そして当選落選という経験を経たのちに向き合う政治学の古典は、大学生の時に触れたものよりもとても深く、じんわりと私に語り掛けてくるものでした。それと共に、自分自身の軸足がなんとなく定まって見えてくるような気持ちにもなりました。それでは、こうした学びをまとめてみよう、本を書いてみよう、そう思い立ち、小学生時代の同級生の縁を辿り「古典に学ぶ民主主義の処方箋」としてまとめることができました。2016年の初夏のことです。
この初の単著は小難しいと言われることもありますが、我ながらとても良い本ができたと自負しています。この本を通して言いたいことは、「選挙で誰かを選ぶことが民主主義ではない、みんなで暮らす社会を、それぞれが良くしていこうと志すことこそが民主主義なのだ。」というメッセージでしょうか。落選は憂うことではありましたし、自分の生活、人生設計の上でもとてもインパクトのあるものでしたが、長い人類の歴史からすれば、何のことはありません。自分が仮に国会に当選し続けても、それだけでは何の成果も示せない。それよりも日本に本当の意味での民主主義を根付かせるという営みに寄与できれば、そちらの方がよほど意味のあることではないか…この本の出版は、それほど自分自身の生き方を定める良い機会になりました。身近な民主主義に目を向けるひとつのきっかけになったことは間違いありません。
【第一子誕生 地域活動への参加】
さて、そうした中、2013年に待望のわが子を授かりました。四十代となっての第一子、何をどうしていいかわからない中で、子どもの成長と共に自分自身も成長していく、そんな日々を過ごしていきました。同時期から、地元の町内で自治会の役員にも加えていただき、地域活動という観点から、西宮市を見る機会を得ることができるようになりました。
そうした中、たくさんの気づきを得ることになります。例えば、国会で議論してきた待機児童対策は、「待機児童は全国で何十万人いて、その解消に何十億円必要で、それには消費税にすると、」みたいな議論になってしまいます。しかし、実際の待機児童は百者百様、西宮市であっても夙川と高須では事情が異なり、同じ地域でも1歳児と3歳児の入りにくさは異なるものです。それを、国一律の議論をすることに無理があり、それこそ地方の時代ですから、地方、それもそれぞれの地域のニーズに合った形で議論することの方が大切なのだと、子育てや自治会活動を通じて学んでいくことができました。
自治会活動でもたくさん学ばせて頂きました。ちょうど防災士の資格をとったあとでもあり、地域の自主防災会では防災訓練の手配を一手に行い、地域の要援護者のお宅へ訪問させていただくことをしました。目の前の公園管理を自治会で請け負うようになり、市役所との窓口をすることによって、そのお仕事の一面を見ることができました。また、地域のまちづくり協議会でも役員として関わることができました。十年以上住んだまちですが、自治会活動をすることによって、やっと溶け込めたような気がしましたし、こういう機会を持てたのも、国会議員でなくなったことからなのだと考えると、世の中の巡り合わせというものは不思議なものだと思うところでした。
【教員免許取得の過程】
国会議員時代に文部科学委員会で、教員の年齢構成に隔たりがあり40代の教員が少ないということと社会人経験を持つ教員が少ないことから、もっと多様な教員構成を目指すべきという主張を繰り返していました。ちょうど新学習指導要領の導入によって変わっていく教育内容、特に高校公民において新科目の「公共」が設置されることになりました。そうした中、実態をもっと知りたいと考え、自分自身で高校公民の教員免許の取得を志しました。
44歳になった時に、佛教大学の通信課程に進みます。通信課程とはいえ、何度かキャンパスに行くのですが、僕と同じくらいの年齢の人やそれ以上の人もいました。目的を持っていると、学びの意欲も全然違ったものだと感じました。
実際に母校において、教育実習も行いました。初日に教室に入ると生徒さんたちが驚いた様子です。どうやら大学生が来るものとばかり思っていたところ、40過ぎの中年がやって来た、就職もできずに教員になろうとしているのではとまで思われていたようなのです。それほど、社会人の学生は珍しい存在なのでしょう。公民という教科の特徴もあるかもしれませんが、社会人として長らくの経験を持つことで得た“ひきだし”は圧倒的に多く、年齢を重ねることによってその幅広い人生経験は大変役に立つと確信することができました。
【新たな一歩へ】
二つの変化、父親となったことと地域活動から自治体を見た経験から、市役所に対する見方も変わってきました。自分の歩みの中から、自然な感情として、西宮市のリーダーを目指す、そんな決断へとつながることとなったのです。
「西宮市のリーダーを目指す思い」
http://toshiro.jp/determination/