嶋田克興先生、ありがとうございました!

さる8月28日に突然の旅立ちをされてしまった嶋田克興先生の葬儀が先ほど執り行われました。これまでの感謝を込めて、お別れの言葉を述べさせていただきました。本当に、本当にありがとうございました!

お別れの言葉

元西宮市議会議長 嶋田克興先生の葬儀にあたり、お別れの言葉を述べさせていただきます。

日曜日の早朝、嶋田先生の携帯からお電話をいただきました。あまりに早い時間で、胸騒ぎを覚えましたが、電話口の声は先生ではなく、お嬢様でした。先生がお亡くなりになられたとお聞きし、言葉を失ってしまいました。

これまでも何度も入院されたことをお聞きし、その度に「しばらくしたら大丈夫や!」と笑顔で返していただいておりましたので、まさかこんな早くにお別れするとは思ってはおりませんでした。まさに無念としか言いようのない、突然のお別れです。

嶋田克興先生は、とてもまっすぐな方でした。そして真心と情熱をもって歩まれた、74年でありました。

報徳学園をご卒業後、電電公社に入社された嶋田先生は、その熱い正義感と活発な組合活動ぶりが目に留まり、31歳の若さで西宮市議会に挑戦されることとなります。この31歳という若さと、当時、阪神タイガースにおいて頭角を現し始めていた掛布雅之選手の背番号と合せて、「GoGo31」というスローガンを掲げ、嶋田先生は3333票という大量の得票を獲得し、見事8位で西宮市議会議員に当選を果たされます。その後9期36年の間、市民の代表者として、とりわけ労働者の立場、そして住まわれる名塩や、拠点を置いた産所町の地域の課題を改善すべく、奮闘を続けられてこられました。また、平成25年には、西宮市議会議長に就任され、その公平かつ公正なお人柄の通りの運営を手掛けられ、同僚議員の皆様からも厚い信頼を得られました。議員引退後には、党派を超えた推挙を受け、西宮市選挙管理委員会委員長の重責を担われました。

この間、平成17年には藍綬褒章を受章、平成26年には総務大臣感謝状表彰、そして平成30年の春の叙勲においては、旭日小綬章を受賞されました。

また組織活動は、出身のNTT労働組合、情報労連、そして連合兵庫とも緊密に連携を取られながら、政党歴は社会党から始まり、民主党結党時から民主党兵庫県第七区総支部の幹事長として、その辣腕を奮って来られました。地方政治はもとより、国政選挙においても西宮の地で扇の要のような役割を果たされて来られました。私自身が嶋田先生と出会い、その薫陶を受けるようになったのも、この頃からです。

平成16年、私はこの地での政治活動を決意し、嶋田先生のもとを訪ね、国政選挙に挑戦したい、ぜひお認め頂きたいとお願いに上がりました。当時、何の実績もない、若く青い私に対し、嶋田先生は一喝されました。政治の世界はそんな甘いものではない、あんたの場合はどこの馬の骨かはわかるが、西宮でそう簡単に国政選挙の候補者になれるはずはないだろう。汗をかけ、地域を回ってその思いが本気かどうか見せてみろ、そんな言葉をいただき、最初の頃はその厳しさに、寝込みたい気分にもなりましたが、嶋田先生のおっしゃられたことを噛み締め、実践する中で、最初に一喝して迎えた私に対し、嶋田先生はある段階から、私の一番の後ろ盾なっていただきました。

朝早くの街頭活動や、数多の集会を重ねて参りましたが、そこには常に、嶋田先生がいてくださいました。いつも温かく、時には御座候の大判焼きを抱えて事務所に来ていただきました。街頭で私が市民の方に怒鳴られていると、若いもんに言わんとわしに言わんかい!、と、体を張って守っていただいたこともありました。十分な支援者を持たない私に対して、数十年にわたって先生ご自身が原付バイクで市内を駆け巡って紡ぎあげた信頼の絆を、惜しみなく共有していただき、私自身の地域活動の基盤を築いていただきました。そうした嶋田先生の多大なお力添えもあり、私は衆議院初当選を果たすことができました。

その後、民主党政権の崩壊により私の国会における議席も失い、私も政治活動を一時休止しましたが、そんな折にも、浪人中の私に対し、声をかけてくれて心配をし続けてくれた、本当に温かい先生でした。そうした中、私が平成30年の西宮市長選挙に挑戦することを決め、一番に嶋田先生のもとへ赴き、ご支援のお願いに上がりました。

これまで培ってきた先生とのご縁でしたから、二つ返事で市長選挙でも応援いただけると思っておりましたが、先生はこうおっしゃいました。わしは今な、選挙管理委員長なんや。どっからどう見られても、誰かに肩入れしているって思われたらいかん立場なんや。すまんが、帰ってくれ、と。先生、せめてビラくらい受け取ってください、せめてご家族に声をかけてください、と申しましたが、いや、それもでけへんねん。それが選挙管理委員長や。堪忍な。先生はそうお答えになられました。頼りにしていた嶋田先生に、全くの肩透かしを食らった形となりましたが、私はショックを受けるよりも、嶋田先生が全く変わらず嶋田先生であること、つまり自分の使命に対しては、とにかくまっすぐにやりきるという嶋田克興イズムが変わらずに貫かれていることに、むしろ喜びを感じたことを思い出します。

そして私は幸運にも、西宮市長選挙に当選することが出来ました。当選の翌日、嶋田先生は満面の笑みで私に当選証書を渡していただきましたが、この不思議なめぐりあわせに、感慨を覚えたものです。嶋田先生の紡いだ信頼の基盤があったからこそ、今の私があります。私だけでなく、多くの同志、後輩が、嶋田先生のお支えによって成長させていただきました。筋を通し、自ら汗をかき、真心をもって接していただく嶋田克興先生にいただいたご厚誼は、私たちの限りない力となりました。

嶋田先生といえば、妻の信子さん、そして三人のお嬢さんという、にぎやかで温かいご家族の存在なしには語れません。ご自身の選挙の折には、ご家族総出で支えられ、嶋田先生の選挙は、笑顔絶えない奥様やお嬢様たちの姿がとても印象的でした。そのお嬢様たちも、それぞれご家庭を持たれ、たくさんの、7人のお孫さんに囲まれて、賑やかで、温かい家族との時間をお過ごしになられておられました。そんな中にもかかわらず、74歳というお年で旅立ってしまわれることは、あまりにも早すぎる、悲しい、やるせない思いでいっぱいであります。

先生の薫陶を受けたわれわれは、先生の無念の思いを受け止めて、信子夫人をはじめとしたご家族をお支えさせていただく、そのことで先生へのご恩返しとしたいと思います。

嶋田先生の最後の選挙となった平成23年の選挙公報には、こう書かれています。

「市民の生活目線を大切に、共に考え、共に行動する」

常に市民、生活者とともにあり続けた嶋田克興先生、あなたの思いは、私たちがしっかりと引き継いで参ります。本当に長い間、お世話になりました。ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。

令和4年9月1日
西宮市長  石井登志郎

写真は、平成30年、叙勲のお祝いにお伺いした時と、嶋田選挙管理委員長から当選証書をいただいた時です。

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