としろう半生記

【幼き思い出】

僕は1971年5月29日に生まれました。いわゆる「団塊ジュニア」世代で、この年には200万人以上が出生しています。サラリーマンの父と、専業主婦の母、そして6歳上の姉、3歳上の兄の三人兄弟の末っ子として育てられました。

2歳まで芦屋で暮らしていましたが、父が東京へ転勤となり、東京都世田谷区千歳台に転居となりました。子どもの頃の記憶は断片的ですが、小石を鼻の穴に入れて取れなくなって大騒ぎしたことや、大雨の日に家の近くの道が川のようになって溺れ、姉に助けられたことなどは不思議と覚えています。

幼稚園はゆかり文化幼稚園というところに通いましたが、幼稚園児の足で30分以上かかる道のりを一人で歩いて通園していました。一人で通園させるのが園の方針だったということですが、今の時代にはあまり考えられない冒険心を育む方針であったと思います。最近聞いたのですが、母は最初の頃はとても心配し、僕の後を尾行していたそうです。40年間、全然知りませんでした。その時の僕は、まっすぐ幼稚園に行かず、あっちの道に入り、こっちの角を曲がり、相当な遠回りをしながら、一時間かけて幼稚園にたどり着いていたそうです。なるほど、これはまるで僕の人生を示唆するかのようなエピソードです。

小学校は世田谷区立船橋小学校に入学しました。通学路に指定された道を歩くと小学校まで15分ほどでしたが、信号のない横断歩道を行けば10分くらいで通えました。悪知恵は発達していたので、よく「通学路破り」をして早く帰ってきたものでした。ところが、小学校一年生の10月21日土曜日(これは明確に覚えている!)、その信号のない横断歩道で、僕は車にはねられ、5メートル以上吹っ飛ばされます(目撃者談)。その時の僕は、なぜはねられたのか意味不明、しかし、僕をはねた人が僕を抱きかかえて車の後部座席に寝かせ、「痛いよー!」と叫び倒していたのは覚えています。左足がこんにゃくのようになっている感覚もなんとなく覚えています。この時、僕は左脚大腿骨を骨折、3か月の間、入院生活を送ります。しかし今思うと、よくあの時、死ななかったものだと思います。普通、小学校一年生が車にはねられて5~10m吹っ飛ばされると、死んでも不思議ではありません。車にはねられたのは運が悪いことでしたが、生きていたのは本当に運のよいことでした。通学路が大切なことを、身をもって実感する出来事でした。

3か月の入院後、しばらくは松葉杖をついて歩くのもままならない状態でしたが、順調に回復し、半年後くらいには普通に歩けるようになりました。小学三年生時には事故前とほぼ変わらない生活を送れるようになり、地元の野球チームに入りました。僕が住む地域には二つのチームがありましたが、天邪鬼だったからなのか、みんなが入るメジャーでない方の「船橋ウイングス」というチームに入りました。メジャーでないこともあり、「6番ファースト」でレギュラーになりました。とても中途半端な立ち位置ですが、試合に出られたことがとにかく幸せだったと感じたことを覚えています。今思えば、あの時の監督やコーチはみんな仕事の傍らで僕らの相手をしてくれていたわけで、そうした地域の人との触れ合いは、親や学校の先生とは違う経験をさせてくれたと思います。

【人間形成期に】

船橋小学校を卒業し、私立の早稲田中学校に入学しました。姉と兄は公立中学に進んだのですが、そのふたりともが受験生であったため、勉強する環境づくりのため中学を受験させることにしたとのちのちに聞きました。毎日、一時間近くかけて、3本の電車を乗り継いで通学する生活が始まりました。この中高一貫校である早稲田での6年間が、僕の人間形成にとても影響したように思います。中学校では硬式テニス部の部長、高校では硬式テニス部の副部長と生徒会副会長をやりました。本当は生徒会長とテニス部の部長を両方やってやろうと思っていたのですが、「両方できるわけ、ないだろ!」と顧問の先生に一喝され、それぞれ「副」をこなすことにしました。無理な計画を立ててしまう悪い癖は、この頃からあったのかもしれません。

大学は、慶應義塾大学総合政策学部に進みます。よく「なんで早稲田から慶応?」と聞かれますが、当時の早稲田高校は、早稲田大学への推薦枠が全体の3割程度、それ以外は受験に回ります。東大に進む生徒もいますが、僕は勉強熱心な方ではなかったので、そもそも推薦枠に入れず、受験に集中したところ、幸運にもストレートで大学に合格することができました。早稲田に入ったのだから、大学も早稲田に行くものだとずっと思っていましたが、慶應が新しいキャンパス(湘南藤沢キャンパス、SFC)をつくり、「総合政策」という、これまでの概念を乗り越えた新しい学部をつくるということに魅力を感じ、進学を希望しました。

総合政策学部の初代学部長は、政府税調会長などを務めた加藤寛学部長。今でこそ“カトカン”の偉大さはよくわかりますが、その当時はどれだけ偉いかもわかっていませんでした。また、一般教養でマクロ経済を教えていただいたのは竹中平蔵助教授(当時)。これまた、その後、その知名度が全国レベルになると知らない中で、教鞭をとっていただきました。そして、ここで曽根泰教教授にお会いし、後も師事していくことになります。

SFCは、何もかもが「常識外」でした。インターネットがまだ世の中にない時代、「レポートは電子メールで出すように」との通達が来ます。今でこそ当たり前ですが、タイプが出来ない僕らは、何とか手書きのレポートを受け入れてもらうよう交渉しますが、却下されます。僕らが一期生ですから、先輩はいません。何もないところからスタートしていますから、キャンパスのルールもゼロから作っていきます。サークルも研究会もゼロですから、何かしたければやりたい者が自分で作っていきます。今もSFCは新しい挑戦を次々にしていますが、一期生の僕らは、特別に得難い経験をさせてもらったのだと思います。

尚、大学に入って間もなくして、父の兄(伯父)である石井一の養子になりました。親世代がいろいろと話し合ってくれ決めた結論であったのでその通り従うことにしました。これは確かに、色々な経験をさせてもらうきっかけになったと思います。既に関西へ転勤となっていた実父、続いて実母も神戸へ戻り、兄も甲南大学へ行っていたので、しばらく姉とふたり暮らしでしたが、姉も結婚することとなり、大学3年になった時に流れの中で養父の石井一と同居することになりました。当時はちょうど政治改革の大波に揺れる政界状況で、大学生の僕にとってとても刺激的な政治ウォッチができる環境にありました。大学3年から4年にかけては、宮沢喜一首相が「政治改革は絶対にやるんです」と言って、結局できずに、内閣不信任案が可決した時でした。それから細川内閣の成立など大激動期に、慣れないスーツを着て政界の片隅を垣間見る機会を得る幸運もありました。

「Vol2. 政治家を志し 磨きの時を」へ続く