石井一を偲ぶ会 in フィリピン

昨日、6月に死去した石井一が、生前に大変深い縁のあったフィリピンにおいて偲ぶ会が開催され、とんぼ返りの日程で訪問して参りました。

石井一の国際人としてのキャリアは、マニラからスタートしています。アメリカ留学から帰国し、日本生産性本部に勤務の後、1961年に発足したアジア生産性機構(Asian Productivity Organization)では本部の置かれたマニラを拠点に、東南アジア各国政府に生産性運動の大切さを説いて回ったと聞いています。写真は、マニラのオフィスでの一枚で。およそ60年前、30歳頃と思われます。

何故そんなにフィリピンに行くのか?、ゴルフですか?、ガールフレンドですか?、と聞いたところ、笑いながら、そうやなー、と答えたのち、目を見開いてこう言われたことがあります。

「ワシはなあ、スタンフォード留学しとったやろ。あの時、とにかく金がのおって(なくって)なあ、皿洗いからベビーシッターから通訳やら何でもやったんじゃが、どこ行ってもジャップだなんだと言われ、何というか、アジア人に対する蔑視のようなものがあるんじゃよな。しゃーないわな、アジア人は貧乏ばっかりやからなあ。それを乗り越えるには、経済をまずは成長させんと始まらん。日本だけでのうて、アジアもいつまでもバラック暮らしでなくしっかり経済が自立せんと、いつまで経っても日本やフィリピンのようなアジアの国は、欧米のいいなりや。それでやなあ、生産性本部に勤め、マニラに行って活動したんよ。」

信念とも言えるこうした思いは、まさに政治家を目指す中でふつふつと沸き起こり、そしてその後の政治活動の大きな柱として依り立って行ったのだと思います。そうして半世紀以上にも及ぶフィリピンとの縁は深まっていきました。

17日のマニラ市内においておよそ100名の方々にお集まりいただき、石井一らしくにぎやかに偲ぶ会を開催をしました。当日は、在フィリピン特命全権大使の越川大使をはじめ、JICAフィリピン事務所長や在フィリピン日本商工会議所の方々など多くの日本関係者だけでなく、フィリピンの政財界関係者にも多数お越しいただきました。

先ほど触れたような信念があったからこそ、そして自分のエネルギッシュな時代を過ごしたマニラには、愛着以上の、まさに自分の本当の故郷のようなそんな思いを持って接していたのでしょう。、そしてフィリピンと日本の友好、さらにはフィリピン経済の発展に力を注いできたんだと言うことを改めて思い起こしたものです。
出席していただいた越川大使からもご紹介いただきましたが、石井一が日本フィリピン友好議員連盟会長であった際に、当時の野田総理とアキノ大統領との間で「戦略的パートナーシップ」が結ばれることになったことなど、本人にとっても誇るべき実績も積み重ねることができたと思います。

さて、2泊3日の強行軍でありましたが、この機会に、石井一の縁も頼りにしながら、今回は
マニラから1時間ほど南のロスパニョス市(Los Banos)を訪ねました。ここは、世界最大級の国際稲研究所があり、そして世界のあらゆるお米の種が保管をされています。またフィリピン大学の農学部をはじめとしたキャンパスがあり、フィリピン有数の研究が行われています。
西宮市は日本酒で栄えたのですよと話すと、Anthony F. Genuino市長からは、日本酒がとてもフィリピンでは人気があるんだけれども、何せフィリピンで日本酒の生産をしていないもんだから値段が高くてなかなか手が届かない、と言うようなことを言われました。なるほど、確かに水もお米もありますから、そういう意味では可能性もあるな、と話をしました。私からは西宮の日本酒を、Genuino市長からはマンゴーワインをいただきました。

特にフィリピンはこの先も2060年ごろまで人口増加が見込まれており、政治も安定し始めているようで、潜在力は高いものがありそうです。

尚、ロスバニョス市郊外には、マレーの虎と呼ばれた山下奉文大将が処刑された場所があります。Genuino市長からその地にもご案内いただき、揃って慰霊碑の前で手を合わさせていただきました。フィリピンには、いまも大戦の歴史が刻まれていることも再認識することとなりました。

6月に逝去してから12月に入れば亡くなって半年となりますが、このフィリピンでのメモリアルセレモニーを無事終えることができ、石井一に対する一連の行事は、一区切りです。(まだ何かありそうではありますが。。。)

今回は三日間、市長としての公務はお休みをさせていただき、その間副市長はじめ職員の皆さんに留守を守ってもらいました。引き続き公務とのバランスをとりながら、ファミリーのミッションにも対応していこうと思います。

尚、私が持ち込んだ石井一さんの大きな写真パネル、神戸の葬儀で使用したものですが、何と、というか、やはりといか、フィリピン航空に結構な追加料金をお支払いすることになりました。そんな話をマニラでしていたら、フィリピン側の人たちから、はじめ先生、置いて行ったら?、と言われ、たしかに帰りにまたお支払いするのも何なので、置いてきました! ご本人のフィリピンに対する愛情が、大パネルをマニラに残すことに繋がったのかと思われます。

いずれにせよ、この度は、様々な方々のご協力でこうした会を催すことができました。心より厚く御礼申し上げます! ありがとうございました!、Salamat!!

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